桑折氏の話-6

<桑折景長の後>

 桑折家の家系図に印象深い話が入っており、子供の頃に読んで頭から離れない。天文の乱以前に子の無かった貞長は跡継ぎにたね宗の6男(5男とも)四郎を迎え入れていた。この時、桑折家としては悲劇が起きる。その後に生まれた実子松鶴丸、竹鶴丸と四郎の3人で障子越しに遊んでいた折、松鶴丸が誤って四郎の目を突き怪我をさせてしまう出来事が起きる。松鶴丸は切腹して謝罪、竹鶴丸は相模藤沢の遊行寺(清浄寺)に叔父と共に預けられることとなる。その後、17歳で四郎は夭折し、覚阿弥として僧となっていた竹鶴丸が還俗、宗長として後を継ぐこととなる。後に桑折点了斉と号し、伊達輝宗、政宗の参謀として活躍する。残された逸話によると血気盛んな攻めの軍議の際、マイナス情報に対する考慮をすべきといった冷静な役回りをしていたように見られる。例えばこんなことがあったとされる。「政宗22才の折、佐竹、葦名連合軍が4000の兵を持って攻めてきた。味方は600、若い政宗は攻めの軍議を行ったが、意見を求められた点了斉はこれをいさめ、和議に持ち込み事なきを得た。」といった記述が残っている。政宗22歳とすると点了斉は40歳前、そのような役割だったのかもしれない。


 点了斉の後を継いだ政長は政宗時代に活躍している。政の字を持っていることから政宗の信も高かったのではないかと思われる。政宗の初期の危険な戦いであった人取り橋の戦いで相馬軍の一角を突き崩し、功を表したとある。秀吉の朝鮮征伐に際し、政宗に同行し、釜山の沖で風土病の為亡くなっている。男子の跡取りが無かった為、石母田家から景頼(政宗側室飯坂局や桑折政長の従兄弟)の息子重長が桑折政長の娘、吉菊と結婚し政宗の命により桑折を継ぐ。しかし23歳で亡くなり、息子がまだ2歳だったため、政宗の差配により父の景頼が桑折家14世となる。この景頼が宇和島に秀宗を補佐していくこととなる。


<原田氏の話>

 原田氏は伊達の宿老の家系を持つ。桑折宗茂の子が養子となるが戦死、子が無かった為、弟の息子、宗時が後を継ぐ。宗時は政宗が高く買っていたが、釜山で桑折政長と同時期に病死する。桑折宗長(点了斉)の息子、宗資が後を継ぐ。この息子が宗輔、原田甲斐とされる。「樅の木は残った」で主役となる原田甲斐である。桑折宗茂の曾孫に当たる。山本周五郎の小説以降、それなりの人物とされたがそれ以前は悪者とされていた。奥州に残った桑折家、飯坂家はこの事件に連座して御家断絶となったと伝えられる。


<桑折四郎と松鶴丸>

 桑折貞長の養子となったたね宗の5男四郎は17歳で夭逝している。四郎を養子として迎えた後、2人の息子が産まれ、長男が切腹、次男が叔父と共に遊行寺に僧となるという状況下で、天文の乱が起きる。「貞長は晴宗側の参謀」となると、残された家系を超える複雑な構図も見えるように思われる。結果として、四郎は桑折家の跡を継ぐことなく夭逝し、貞長の次男が還俗して桑折家を継いだ。系図算要によると山陰流藤原伊達の部分でたね宗の子として桑折松鶴丸の名が載っている。四郎と混同していると思われるが、複雑な関係も偲ばれる。

 子供同士の遊びの結果責任で切腹というのは現代の感覚ではとらえられないが、当時の現実でも有ったということか。一方、四郎のその後の記述がなく、侘びの仕方の大きさから、かなりの重症を負った可能性があるのかもしれない。調べようの無いところだが。


 遊行寺は時宗(じしゅう)の総本山で広重の東海道53次にも登場する大寺である。時宗は一遍上人によって創設された。一遍は四国の出身で踊り念仏で全国を行脚して歩いた。中世では多くの信者を獲得し、禅宗、日蓮宗、浄土宗をしのぐほどの時期も有ったとされている。一遍上人絵詞は当時の風俗を知るうえでの一級資料でもある。一遍上人は東北地方への行脚も行っており、伊達郷も巡ったと思われる。


 桑折家初代親長の頃、伊達政依と共に時宗に帰依していたとの記録がある。竹鶴丸が出された相州遊行寺は今も残る時宗の総本山であり、関連が伺われる。


 景長の景の字はしばしば用いられている字で、長尾景虎は典型的。越後の上杉家は天文の乱の原因となった後継問題で、長尾家に簒奪された。